新年号「社会資本整備におけるコンプライアンスとは」(学習院大法学部教授櫻井敬子)を読んで
【談合はなぜ悪いのか】「関連する企業・事業者がそれぞれの技術力を持ち寄って協力し合い、事業を分担したうえで能力に応じて工事を受け持つことは、ごく自然な成り行きであり、合理的な対応ですらあって、特別非難を受けるような実質的違法性は存しないないようにもみえる。受注額についても、一定の利潤を確保するために「話し合い」が行われ、一定額を上乗せした額がセットされた場合、確かに上乗せ分は「ムダ」な支出であり、国民の血税は1円のムダも許されないはず・・・というのは少々形式論に傾いており、いまひとつ説得力がないように感じるのは、おそらく筆者だけでないであろう。」・・・・「価格の上乗せといっても、彼らなりの「常識」の範囲でなされるものであり、破格の上乗せがなされるような自体は通常生じない。」・・・・「談合は、伝統的な一種の利益再配分の形態ともいえるるから、実態に踏み込んで仔細に省察すればするほど、談合がなぜ悪いことなのか、かえって説明が困難になる。」
現代の社会では、企業であるからには、倫理に則った企業活動によって、適正な利潤を確保するのは当然である。ここで問題なのは「一定の利潤」「上乗せした額」「価格の上乗せ」(上乗せというのは材料費や下請け額に元請の業務に対する当然の対価をプラスするということ)が、納税者である国民、一般社会に合意できる常識の利潤の範囲か、通常の民間対民間、民間対個人の消費における契約のそれより不当に「破格の上乗せ」なのか、という問題である。前者であれば非難されることが全くない。後者であればコンプライアンス違反、非倫理となる。どっちなのかが社会一般に知らされないまま、分からないままにきたことが、談合は、
【ゲーム・ルールとしのコンプライアンス】「今や、およそまっとうな企業たらんとする者は、絶対やってはいけない「禁じ手」と心得るべき」
ものになってしまった。非倫理である後者のイメージが国民に植え付けられてしまった。通常の常識以上の上乗せがあったとして、その余り金がパーティ券購入という献金となり、政治屋がそれに群がる構造ができているのではないか、というものである。これは証拠があるわけではないので、分からないことであるが、国民にとってはさもあらんというアナロジーは捨てがたいのである。というわけで、
「談合は、公正な市場ルールを破る行為として、それをやったらゲームが成り立たないゆえに許されないのであり、ルール破りが追放処分を免れないのは理の当然である。」
我々は、そういうルールの時代になっているということを、理屈抜きに認めなければならないのである。そこでここまでは納得しよう。納得することが倫理でもある。
【NPM導入の意味合い】
しかし、ここで重要な課題が生じている。氏は字数の制限のためか、触れてはいないが、「血税は1円のムダも許されない」というかけ声で「安ければよい」では、国民の重要な財産としての社会資本の品質が保てなくなるという問題である。低価格入札、ひどいものは積算額(予定価格で通常の経済ベース)の30%で落札しているものもある。これではまともな仕事はできるはずがない。品質確保法が施行されたが、それでも「安ければよい」というのが横行している。社会資本は将来の世代の人々まで享受するものであり、このまま推移すれば、そういう国民大衆の安全が守られるのだろうか。公共投資ではないが、姉歯建築構造計算捏造事件が社会問題となっている。「安く、もっと安く」という圧力が、技術者術者倫理を反故にし犯罪を犯させてしまう今の時代風潮。NPMが導入され、競争は良いことだという新自由主義によって、姉歯事件のようなことが社会資本で生じないだろうか。建築も広い意味では社会資本ではある。最後の負担は国民がかぶることになる。適正な価格で事業を行い耐久性ある高品質の社会資本を将来の世代に残す責務が現代人にあるはずであるが、これでは、社会資本の整備と維持保全という誇りを持ち倫理に則った業務を行っている技術者はいったいどうすればよいのだろうか。建設産業の需要と供給のバランスが崩れているだけだと、経済学者は言うかも知れない。そのうちに技術力のない者が淘汰されて、価格も適正になると言うであろう。しかしその間に建設された社会資本の品質はどうなってもよいというのだろうか。